雑記 2024.11


 私に会いたいと言う同業の人がいた。

その人は私の仕事に感銘を受け、私が憧れだと言ってくれた。

また、その人は私と友人になりたいと言った、私も快く引き受けた。

それから何度か会って話をしたが、その度に私を褒め、憧れだと言った。それしか言わなかった。

仕事以外の、趣味や私自身の話をしても、それすら何か価値あるものとして紐づけられ、褒める以上の言葉は無かった。


 その人が憧れているものとは一体何だろうか?

私がやった事といえば、日銭を稼ぐために与えられた役職で仕事をした、ただそれだけである。

技術としての価値が付随する仕事とはいえ、業界で見れば些細な一時的業務である。

少し経験値を得た程度で、今の自分とかつての自分を比べても中身はほとんど変わっていない、と私自身は思っているが、人の目を通すとそれまでの道のりがひどく誇大化して見えるらしい。

ここに、自分が自覚している評価と第三者から見た評価で認識のズレが生まれている。

誇大化した評価は功績や偉業といった「価値」に変貌して、そのうち私を指す代名詞のように扱われる。それを見た人間が価値≒私だとインプットして、価値から虚像を作りそれを私だと認識する。連鎖はネズミ算の如く伝播して止まらない。

こうして認識のズレはさらに大きく、歪になっていく。

周りの人との会話や応対の端々にそれが透けて見えるようになった。私を憧れとして見る人が現れた。

知らないうちに第三者の視点によって「価値」が作り上げられる過程をまさに今、実感を通して垣間見ている。

良きにつけ悪しきにつけ、その人間自身の本質を度外視したそれは、常に客観的立場から出現し、短期間で非常に容易く確立するのだろう。主観が介在できる余地はないに等しい。

是正することができなければ「価値」だけが独り歩きして残り、いつか本質は消える。

″作品と作者は同じじゃない″とはまさしく紛れもない事実であった、しかし作者がそれを訴えたとして受け入れる人間はどれだけいるだろうか。

作品から生まれた「価値」のフィルターを作者にまで付けて値踏みするのはいつでも第三者である他人だけだ。

恐ろしくなった。

全く正当で、自分の存在証明になると信じ夢見て追い求めた「価値」の実体に中身は無く、あまりにも無意味で虚しい。

そして同時に、あたかも当たり前のように、他人に向かって無意味な「価値」を何度も作り上げてきたのだ。

そのうち私も価値を基準に存在を判断され、本質は見誤られ捨て置かれ、どっちが本当なのか分からなくなるかもしれない。

「価値」を作られる側に立って初めて、この行為の言い知れない不気味さを知った。


 その人は私の知らない所に貼られたレッテルだけを見て、私の知らない価値でできた虚像に向かって、ずっと会話をしている。

私はただの人間でしか無い。それ以上でもそれ以下でも無いのに。

 いつになれば、この人は私のほうを向いて話をしてくれるだろうか。


emumæɯnɯǝ

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