雑記 2024.8

 今年に入って、立体感・遠近感を抑えた文様的な描き方に凝っている。

 ゆるゆる載せ続けている絵たちを見ればもうあからさま、上の雑記のマークだってまさしく…。

 グラフィックデザインぽいものは以前から描いているが、ここ最近民族・ 民俗の類に手を出し始めてから、その類いのパターンや文様の要素を何かにつけて入れずにはいられなくなった。


 三生苦覚書きで触れた楽器と同様、民族文化について調べると必然的にその土地や時代に作られた意匠が目に入ってくる。

 日本人に馴染みの深いものだと、土器や埴輪、曼荼羅、着物の柄、家紋などが想像しやすいだろうか。

 図柄や形ひとつで、それが生まれた時代の空気感、その場所に何が息づいて、そこで暮らした人間が何を行い何を信奉していたかまで読み取れるほどに、受け継がれてきた意匠は当時の情報や意味を含んでいる。

 そもそもが文字と同等もしくはそれ以上の情報源として、又まじないや祈願を込めるものとして意匠を用いてきた経緯があり、由縁や歴史が内在するものは見ただけでもなんだか荘厳さを感じてしまうぐらい不思議な重みがある。

 そう感じるこそまさにまじないの効果が発揮されている証拠なのでは…?それぐらい夢を見たい。

 モチーフに関しても文化によっては全く違った捉え方で描かれるため(例えば、太陽や月といった普遍的なものを現す色が余所の国では全く別色を使っていたり、「アラベスク模様」「ペイズリー柄」など一言でまとめられた名称でも、交易で伝わった場所によって様々な植物に置換えていたり、幾何学模様の線の広狭曲直までお国柄が出ていたり)、非常に数多く個性に富み、そのどれもが引けを取らず、惚れ惚れするほど美しい。

 こんなもの意味好きにとってはワクワクするに決まっているし真似して描いてみたくなるに決まっている。

 元々細かいものを描くのが好きなことも手伝ってか、そういう絵ならもういつまでも描いていられるので猛烈に何にでも模様を入れたい病にかかっている。

 しかしまだまだ勉強途中でもあるので、1ヶ月ぐらい使って図書館に入り浸り美術史から歴史の起源まで遡りたい病にもかかっている。(そんな時間は当分持てそうにないので泣いている)


 じゃあ昔から模様や宗教画が好きだったっけと思い返すとそうでもない。

 というか寧ろ、気持ち悪…と目を背けるぐらいには苦手だった。

 覚えてる範囲で例を出すなら、ペルシャ絨毯にある柄(それこそ今や描くほど好きになっている意匠のひとつ)とかカオナシの面とか目の端に映っただけで逃げ出すほど本当に嫌いだった。

 それがどういった心境の変化か全く覚えてないが、ある頃から何故かその気持ち悪さがクセになってそういうのを好んで見たり描いたりするようになり、今に至る。

 そんな、子供の時嫌いだった食べ物が大人になって好きになるみたいな現象って絵でも起こるんだ。自分の好みの琴線が本当に分からない。

 おそらくかつての私と同じように、模様が苦手な人や集合恐怖症の人はそういう絵ちょっと・・・となっているはずで、その気持ちは痛いほどよく分かる。

ごめんなさい、ペルシャ絨毯の柄もカオナシもMOTHER2のラスボス(初対面時)のデザインもめちゃくちゃ好きなので無理な人はどうか自衛してください…。


 ちなみに、立体や遠近を表現するリアル指向の絵に対してはずっとうっすら苦手意識がある。

 別に描かないわけではない。描けと言われれば描く。

 ではさて描くか、となった場合…まず重い腰をあげないといけないような感覚から始まり、全面に線を入れ終わるとこれで本当にあってんのかとそこから永遠にいじり回す無限ループが続いて、途中で飽きて放置して、久々に見るとこの線もしくは塗り全然合ってないじゃんとまたいじり回し、不安なままもうなんか、止めとこう…と筆を置いて終わるという、なんともスッキリしない幕引きになる。

 一言でまとめるとめんどくさい。

 こうして文章に起こして見ると改めて、ああ〜、嫌だ、全部ほっぽりだして逃げたくなってきた。

 デッサンしかり風景画しかり、立体遠近を意識しだすと途端にめんどくさが数百倍に膨れ上がるのはなんでだろうか?

 描いている間ずっと何か縛られている感じもなんか…相入れない。

 リアルの説得力を基準にすると正解がそれだけになるせいで描きたいもののゴールを自分で決める面白みが無くなるのが、多分不自由さの原因な気はしている。

 しかし仕事で描く絵は立体を摂る方が必須スキルなので、今これがめちゃくちゃ悩みの種である。

 ルネサンスが起こらず、全部平坦の変相図やペルシア細密画が絵画の全て、の世界線に転生したりしないかな…と立体をかきながら苦悶する日々…。