雑記 2026.5
つい先日、かねてより行こうと思っていた舞台をやっと観に行った。
本っ 当に念願だったため、どうせなら何かしたいと思い、観劇に向けてちょっと気合を入れてみる事にした。
まずはその舞台の仕組みや様式を調べ、劇団旗揚げとその当時の時代背景を遡り、影響された他ジャンルにまで手を伸ばし、戯曲の時代背景だけ抜き取ってその時代を映画や本で知り、当日まで欠かさず情報を見つけては頭に入れ続け、観劇前にはいわゆる聖地巡礼までして感傷に浸ること3週間弱。
当時の人間の感覚に近い状態を模して臨む。
趣味に投じる時間の余裕に恵まれたこともあり、ここまでやろうと思ってのめり込めたのは初めてだったので、そこそこ稀な体験になりそうと思い当日の備忘録もついでに書き留めた。
新宿の喫茶ピース、壁際の席で休憩を取る日。自分の前の席にはおそらく文芸関係の男2人、自分の後ろの席には若いカップルの男女2人が座っている。
前の男が現代アートの最端は誰も追えてないだの詩歌は魅力があるだのから始まって、詩を書くにしてもひらがなかカタカナか漢字か、どれをどこにどう充てがうかによって印象は大きく変わると静かに高説を行う間、トイレから帰ってきた後ろの席の彼女さんがトイレめっちゃ混んでた〜手前の人の水場の使い方超汚かった〜と、座りつつ彼氏さんに談笑する。
少し前に店を出たおじさん2人の場合では、片や田舎から出てきて舐めれられちゃ困りますからと、席の隣に立って少し照れながらも隆として服を見せ、片や見せられたもうひとりのおじさんは良いじゃないですか中々決まってますよと、宥めるように褒めそやす。そのやりとりが余りにも懐かしい。
後ろの席のカップルにとっては言葉尻ひとつ取ってもえらく古風に思えるだろう。
古〜い。
数多の席から立ち上る煙草・アイコス・ベイプの煙、一緒に今昔混沌漂合う喫茶店の、何とも居心地の良いこと。
他人の話を盗み聴く気色の悪い黒衣の存在も黙認してしまう喫茶店の、何とも大らかなこと。
これで順番待ちの注意書きなどなかったら、アトラクションが終わった後の現実にもならずに済んだろう。
描こうとしたなけなしの昔
探ろうとするなけなしの過去
未来に不安を抱いて過去に助けを求める
とっくの前に終わった時代を再送して、人は歴史の盛衰を知る
広場は壊れかけていた。
天井を黒いシートに覆われて、掲げられていた広場の文字は今度こそ取り外されようとしていた。
憩いの店は閉まろうとしていた。
今や求める人は数えるほどにも無く、店のかたちは老廃を悟って終いのやり方を考えていた。
街は知らない人で溢れかえった。
関わることなかれ、それが条理たれと皆で不干渉の規律を正す街になった。
かつての面影を体感できる実存は死んでいく。
そんなにも点は小さくなった。
だだっ広い土地でうすら寂しく点、と店、の並ぶ街に、誰にも興味を示さない、興味のない人たち同士に、働きかけ、何とか繋ぎ止めようとする慈愛の熱を持ち、恥を隠さず狂気の表立つ舞台は、まだあの紅いテントの中に残ってあった。
土の上に畳一重、帳に封をし、譲り合って押し込められた人間のすえた匂いの中に残ってあつた。
ぶうやは地下下水の暗いソドムでサーチライトになるよな男だった。
その重しが降ろされたとき、胸を叩く風の吹く夜町へ己を捜しに去っていった。
飛び散る役者の汗、唾き、装置の水、投げつけられた野菜の汁、何故皆んな見向きもしない、何故忘れ去ってしまう、何故臭いものに蓋をする、助けてくれ、取り残される恐怖から救ってくれ、どうしようもない孤独から救ってくれ、いやむしろその救いを救うのは、又観ている人間側だった。
まずいまずい。譲り合いやコンプライアンスやソーシャルディスタンスの精神をうっかり忘れてしまうところでした。
現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元号は令和です。現在の元
戦後から21世紀前の文化に進んで頭のてっぺんまで浸かりに行った人間はこうなる。
ただの日記程度の文体までなんかそれっぽい風味がする狂言回しになるほど感化されまくっている。小っ恥ずかしさも何のそのという気概があって大変痛々しく好ましい。
舞台は勿論最高で、戯曲のなかの彼らが生きる時代も追憶できた。
郷愁を如何なく享受できる甘美な体験を得られて大変満足でした。
振り返って考えた今なら分かるが、これは本当に危ない。
文化の陶酔の果てに得られるノスタルジーの裏には、非常に巧妙で誰でも陥る罠が仕掛けられている。
自分にしっくり来る文化を取り入れる事自体は別段悪い事ではない。趣向や情緒、また教養まで(反面教師にする場合も含めて)文化から教えられることがあるのは確かなので、インプットは推奨されて然るべきと思う。
しかし、それを繰り返し行き過ぎた場合、吸収した文化が自己のアイデンティティとなり、自身の倫理までも現在と切り離し、傾倒した文化の時代の倫理に追従させる程の影響を及ぼす可能性を多分にはらむ。
そのうち自分の礎となった文化を信仰し始め、こんなに素晴らしいんだから誰しも自分と同じように文化を良い物として持っている、ないし他所の文化も快く思ってくれるはずだ、という錯覚に陥る。
好きと思えるものを基盤にしているため、それ自体に対する疑いや否定が非常に生まれにくく、さらに自己改変まで文化に委ねたためそれを後ろ楯にしてどうとでも動けてしまい、即ち「文化」という責任能力を付与できない概念を言い訳や免罪符に使えば、取った行動に伴う責任をいくら追及されても当の本人は文化に論点を移して目を背けられる、といった仕組みまで構築できてしまえるのがもう一層危うい。
要するに、好きな文化→信じている/正しいとするもの→主張し振り翳せる思想といった具合で成り立ってしまう。
優劣と真偽を少し加えればあっという間に自文化中心主義が出来上がり、果てに他文化の排除・塗り替えを目指しだし、また全ての文化は尊重されるべきと許しすぎれば文化相対主義が出来上がり、違う文化だから全てしょうがないという姿勢が一変、違う文化に口出しするなと干渉を拒み、対話と理解を放棄したまま地雷を置いて籠城する。
文化という概念が思想の境を踏み超えてあやふやになったとき、それを自分の内面から外面の他者に向けたとき、初めて問題の様相は顕になる。
しかしそもそも、文化のみに頼って周囲の状況や他者を知ろうとすること自体お門違いであることに立ち帰る必要がある。
前述で引用したふたつの文化主義は文化人類学が提唱しているが、これらも学問という要素のひとつであって、価値から人権まであらゆる事を一挙に解決してくれる万能道具ではない。
戦争が起こる時、他者を国に紐付けてしか見れなくなるのと同じ、本来個であるはずの人を文化という大きな括りの群れで判断しようとするのは、レッテルの壁を通してぼやけた輪郭だけ見て、真に相手の内情、文化に対してさえ真剣に相対する気がないに等しい。
その上、アイデンティティと自尊の支えを文化に据えた後に、そういう判断基準を培ってしまうせいで、ひん曲がった目で周りを捉えてしまっている自分に対する疑いも、先述した通りまず生まれない。
側から見れば酷く傲慢で横暴だが、その暴力性が発露する思考は本当に身近にあり、いとも簡単に誰でも形成できてしまう。
a=Aだとか、◯=丸だとかの教えを会得した時点で、既に皆その思考のスタートライン上には立ってしまっている。
そこを盲目して進んだ末の、他者との接触や対立が理解と程遠いのは明らかである。
私は順番待ちの文字に対して前はこんなもの無くても譲り合っていたと憎々しく感じ、インバウンドの観光客を見て、まるで観光大国を推し進める制度に文化が壊されるかのような錯覚の嫌悪を覚え、「昔は良かった」と嘆いた。いや、嘆きを利用して悲劇の主人公になりきり現状から目を逸らしているだけだった。
恐ろしいことに、本当に無自覚に、全て理由がある事実を文化という建前で掻き消していたのだった。
非常にシンプルなのに視認するのも難しいこの罠に引っかからない分岐点は、自分の賛美する文化への懐疑と、相対した他者の持つ文化にその他者自身まで見出さない、理解に文化のみを用いらない、他者というただ一人の相手と対話すること、ここに在るはずである。
「人の生きた証」と人は言うが、結局文化は文化ただそれのみで、副次的に隆起して変化し流動する事象に過ぎない。紐付いているように見えて、人間の肉体や精神から遠く離れ、全く違う次元に文化はあるように思える。
生まれてもいない時代の故郷に、あのままずるずる引き込まれていたらと思うとほんとに目も当てられない。一緒に見に行った友人にまで振り撒いていたら殊更申し訳もたたない。ノスタルジックに世を憂いて思考を停止している場合ではない。それが分かっただけで十分丸儲けだった。
過去も大事にしつつ自分は今を生きている。過去を内包するあの美しいテントを建てた人々も、今を生きている。現在の日本の元号は令和である。
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