雑記 2025.01
他人の一挙手一投足を色々勘ぐってしまって、疲れたせいだ、今死ぬほど気が滅入っている。
いつもは気を重くするだけ重くして忘れようとするが、感情を記録しようと思い立ったことを思い出した。一旦ここに書くことにする。
他人など気にも留めず堂々と我を通している方がいっそ清々しく、かえって相手に対して誠実なのではないかと思えてくる。
他人を、他人の否応なしに慮るという奇妙な教訓は、人が怖くて仕方がないこの恐怖に対する防衛から生まれたんだろうか。
そもそも自分がされて1番嫌なことだ、そんな慮りなんてものは。
なのに、依にもよって自分が、他人に繰り返しやり続けている。
自分の内面を見てほしいと願っているのに真逆の行動をして自己嫌悪に陥っている。
頭がおかしくなりそうだ。
改善しようと何度も心に留めて、話す時に意識してなるべく相手の人の目を見て、喋っている事を聞いて、自分の思ったことを言葉にして返そうとした。
自分を強く持とうとした。
しかしどれも、私にとっては心身とも余裕がある状態で意識してようやくできることだ。
気を抜けば、こちらを向く相手の目が突き刺さってきて途端に恐ろしくなり、そんなはずが無いのに、相手の行動・言動全てに、沈黙の間さえも、値踏みするような、責めるような敵意を向けられているようにしか思えず、身がすくむ。
顔が上げられなくなって、呼吸が浅くなり、自分の考えがまとまらなくなり、思考が止まり、会話を忘れ、しかし怯えをなんとか悟られないように、相手の話すことに賛同のような相槌しか返せない機械になる。
仮にうまくコミュニケーションを交わせても、次は失敗するかもしれない、うまく続けられる保証なんてどこにもないと不安になって、会うたびに、会うのが、仲を深めるのが、どんどん怖くなる。
また思い返せば、相手の期待に応えようとして、相手が求める答えを探って、あたかも心からそう思っているように発言している八方美人や誤魔化しばかりで、灰汁みたいに遠く自分の内面と乖離していく自分が見える。
相手を気遣うのが下手なら自分を気遣うのも下手だ。
こんな気苦労をするなら、改善を諦めて、この性格は変えられないのだから暮らせる分でもって生きていくしかないと思おうとする。
そうして、決まって必ずよぎる。
これから何度、怖気付いて、勘ぐり続けて、配慮の具合を間違え続けて、他人との交流を失敗し続けて、後悔し続けるのか?
相手から伝わってくる気まずさを、コミュニケーションの取りづらさを、失望を、頭では分かっているのに決して良くならないこの惨めな有り様を、私は死ぬまで受け入れなければいけないのか?
わかっている。自分と向き合って和解するだけで済むことだと、誰もそこまで気にしていないと、めげずに話せばいいと、何度も言われてきた、頭で理解している。
それができていたらこんな文章なんか書いていない。
何度繰り返しても、その度に潜在的な恐怖が頭を支配して出来ない、終わりがみえない。
普通に憧れ、出来ない事実を受け入れられない自分のエゴも滲み出て殊更に惨めになる。
誰か教えてほしい。どうやったら人を目の前にしても余裕が持てる?どうやったらいらない配慮を止めることができる?どうすれば会話ができる?どうすれば相手の目を見られる?どうすれば人が怖くなくなる?
人とただ接したいだけなのに、人のことをただ素直な感情で想っていたいだけなのに、どうしてこんなに他人が怖い。
抱えているこれを自覚し始めた頃からずっと付き纏ってきた、もっと他に考えないといけないことは増え続ける一方なのに、いつまでこれに構わなきゃいけない。もう十分、もうたくさんだ。
絵は、文字は、伝承は、過去のものは、
人の存在が薄く曖昧なものになったような気がして、恐れているもののいない、此処でなら、しがらみのない思考ができる。
今、絵を描く時間が奪われてしまっている。
ありのままでいられる居場所がひとつ奪われてしまっている。
この場所がもし全部失われたらと考えるだけで、涙が出そうで、震えが止まらない。
今は気が滅入っているから、何もかも絶望的に思えてくるだけだとは思う。おそらく。
こうして言葉にして、自分が追い詰められている原因を知って、噛み砕いて理解する。
ここに打つ文字は、感情の備忘録であり、自分の気を落ち着かせるための麻酔でもある。
ここはそのためにもあるんだと覚えておきたい。
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